4月は人事の時期である。人事といっても、特に4月は部署等の異動だけではなく、昇格・降格、役職が変わるといった事も含んでいる。
(なお、他の大学はどうか知らないが、所属機関では昇格や降格、役職が変わるのは原則4月のみとなっている。)
さっき学内の人事がまわってきたけど、昇格だけではなく降格する人も珍しくなくなってきた。
— とある大学職員 (@daigaku23) 2019年4月3日
年功序列ではなく、その等級で求められる能力や知識が担保されていない、担保していてもミスが多い人は一つ下のステージにいくイメージ。
さて、こんな事をツイッターで呟いたけど、この時期になって学内の人事を見ていると、昇格人事を見て「あの人は仕事が出来るから当然上がるよね」とみんなが納得するケースもあれば、もちろん逆もある。また降格も同様であり「何であの人が降格なの?」という例もある。
そして、最近の所属機関の人事評価は自分が大学職員に転職した時より、かなり厳しくなっていると感じている。そこには期待を込めて評価を上げる(つける)ではなく、定められた知識や能力がある事を大前提に成果をあげているかどうかである。
(たまに仕事をスリム化したから自分は仕事が出来るという主張を目にするが、仕事の改善やスリム化なんていうものは日常的に行わなければならないものであり、評価されるのは一番下の職位のみである。)
仕事が出来るとは
では仕事が出来るとは何のか?例えば「仕事が出来る人の特徴は何か」と検索をすると色んな情報が出てくるが、自分が営業をやっていた時は、仕事が出来るというのは至極簡単であって、売り上げがあり、(会社に)利益をもたらしている人だろう(言うまでもなく、売り上げだけではなく利益が必要)さらに言えば、少なり労力で利益を持続的にあげられる人である。
では大学職員はどうかというと「仕事が出来る」という事は中々定義する事が出来ない。営業売上・利益のような定量的な成果というものが見えにくい・見せにくいというのが大きな要因であると思う。
(ただ募集や就職率といったように数字で表せる部署もある。その場合は部署全体としての評価として見られるが、就職であれば自分の担当学科の就職率を定量的目標とするケースもある。)
そして仕事の出来る出来ないは、組織として明確な指標がない場合は、話す人の主観や対象者への印象にどうしても偏ってしまうと感じている。「自分はExcelを駆使し仕事が出来る」と主張しても、他から見れば、そのレベルは経験年数や年齢からすると当然の事であり、到底評価できるものではないと思い「あいつは仕事が出来ない」と評価する事だってあり得る。
まあ今の仕事で言えば、仕事が出来るとは「教育研究や組織に貢献し、メリットをもたらせたか」ではないかと思う。でもメリットをどうやって評価に反映してもらうかは、単純な話ではなく、同じ組織に所属していても上司との関係や組織文化もあるから一概にこうすればいいというのは答えを出す事は難しい。
仕事の出来と昇格と降格
仕事の出来不出来と評価と関連する事として、最近の大学職員の昇格や降格にもメモしておきたい。大学職員は年功序列、給料は上がり続けるというイメージが大学外では未だに非常に強いと思う。
(最近はそういう事を書いている大学職員の転職系サイトが増えたのもあるかもしれない)
人事制度は大学によって異なるので一概には決して言えないけど、自分がいる組織では年功序列という事はあまりない。仕事が出来る人は昇格するし、仕事が出来ない人は降格する。もちろんボーナスも人事評価によって異なるし、ある年齢だと年収には大きな差が出来る。
そして降格の制度は、昔は制度設計だけされていて実際に降格する人は殆どいなかったが、最近は降格する人は珍しくなくなってきている。
職位は上がるという事は、その新しい上の職位を担う十分な知識や能力があると判断されている。つまり知識や能力がないと、欠如してしまったという人は降格する事も十分ある。もしくはミスが非常に多い場合も最近は降格対象になっていると感じる。降格になれば言うまでもなく給料は下がる。
ひと昔前は、管理職は年数を重ねれば誰でもなれたけど、今はそうもいかない。また自分は平でいいやと手を抜いて、現状維持しか出来ない・ミス連発だと給料は年齢給しか上がらない仕様になっている。
最近の大学職員の求人は新卒既卒問わず人気らしいけど、所属機関に入職してきてくれる人はいずれも優秀な人ばかりである。そういう人たちが本気を出したら、自分世代なんか吹かれたら飛んでしまうに違いないと戦々恐々としながら、日々の仕事をしているのである。